「カール・セーガン科学と悪霊を語る」からの引用文

読んだ本から気になった部分を記録しておく備忘録。

現在は文庫になっています。

シュメール人も思った「最近の若いモンは!」

第1章 いちばん貴重なもの より

 いつの時代にも、教育水準の低下は悩みの種であった。約4000年前のシュメール人が残した史上最古のエッセーには、近ごろの若者はものを知らないという嘆きがみられる。2400年前には、晩年の厭世的なプラトンが、「法律」第7巻のなかで科学的無知をこう定義した。

 1も2も3も知らず、偶数と奇数の区別もできず、数を数えることもまったく知らず、夜と昼を分けて数えることもできず、月や太陽や星の運行についても無知な人のことです。

……自由人は、少なくともエジプトですべての子供たちが読み書きといっしょに学んでいるくらいには、これら諸学科について学ぶべきでしょう。あの国には、子供たちのために工夫された算数ゲームがあって、楽しく遊びながら学ぶことができます。

……私自身晩年になり、我が国の嘆かわしい状況を聞いて、まったく驚いたしだいなのです。このような状態は、人間ではなくて豚のような動物にこそふさわしいものだと私には思われました。そして自分だけでなく、すべてのギリシャ人のために恥ずかしいことだと思ったのです。

「今時の若いモンは物を知らん!」というのは大昔から変わっていない様子。

作り出される「宇宙人に誘拐された記憶」

第9章 セラピー より

 「再生された記憶」には3つのジャンルがあり、それぞれに専門家を名乗る人たちがいる。すなわち、「宇宙人による誘拐」の専門家、「悪魔崇拝カルト」の専門家、そして「子供時代に受けた性的虐待」の抑圧された記憶を再生させる専門家である。患者は、自分の抱える問題にふさわしいセラピストを自分で選ぶか、あるいは人から紹介してもらう。セラピストの仕事は、何年(ことによると何十年)も前に起こったとされる出来事のイメージを呼び覚ますことだ。そしてセラピストたちは、患者の苦しみ(それは、見まがいようもない真正の苦しみだ)に深く心を動かされている。さらに、少なくとも一部のセラピストは誘導尋問を行う--それは実質的には命令であり、権威を帯びた人物が、暗示にかかりやすい患者に向かって「思い出せ」と迫るのだ(あやうく「告白しなさい」と書きそうになった)。セラピストのためのネットワークが存在して、クライアントの経過や治療法の情報を交換しあっている。また、治療にあたる者は、懐疑的な同僚に対して自分のやりかたを擁護しなければならないと思っている。医原病だという説はおおむね黙殺される。被害者はたいてい女性だ。そして、物証は何もない(すでに述べた。”ひっかき傷”などを別にすれば)。このように考えてくると、「宇宙人による誘拐」というのは、実は、もっと大きな絵の一部ではないかと思えてくるのである。
では、その大きな絵とは何だろうか?

私はこの疑問を、フレッド・H・フランケル博士にぶつけてみた。博士は、ハーバード大学医学部の精神医学教授であり、ボストンのベス・イスラエル病院でも精神医学科医長を務める催眠療法の先駆者である。彼の答えは次のようなものだった。

 「宇宙人による誘拐」は、何かもっと大きな絵の一部なのではないか、もしそうだとすれば、それはいったいどんな絵だろうかというのですね?

このような難題に軽々しく踏み込んでよいものかいささか不安ではありますが、あなたがここに挙げた要素はいずれも、今世紀初頭に「ヒステリー」とされたものによくあてはまるようです。残念ながら、この用語はあまりにも幅広く使われたために、現代ではそれに対する理解があいまいになり……言葉そのものに重みがなくなったばかりか、その言葉が示す本来の現象も忘れられがちになっています。たとえば、暗示にかかりやすく、想像力が旺盛で、文脈的な手がかりに対する感覚や期待が強く、伝染的な要素が高い……多くの臨床医は、このあたりのことがほとんどわかっていないようです。

セラピストは患者の時間を逆行させて、「過去の生活」に関する失われた記憶を取り戻させる。しかしフランケルによれば、それとまったく同じように、催眠状態の人の時間を進めて、将来を「思い出させる」こともできるそうだ。時間の逆行やマックが使っている催眠と同じく、時間を進める方法もまた患者の心に強い感情を引き起こす。「患者たちが無意識のうちにだましているのは、セラピストではなく、自分自身なのです」とフランケルは言う。「なぜならこうした患者たちは、自分の作り話と実体験とを識別できないのですから」

催眠下で回復された記憶の信頼性について。未来の記憶も回復してしまう催眠法によって回復された過去の記憶の信頼性は言わずもがなです。

偽りの記憶を思い出すことに関しては次の本も興味深いです。

ガレージに竜がいる人がいっぱい

第10章 ガレージの竜 より

 「うちのガレージには火を吐く竜がいるんだ」

私が大まじめにこう言ったとしよう(以下、心理学者リチャード・フランクリンの集団療法の手法に従う)。もちろんあなたは、自分の目で確かめたいと思うはずだ。竜の話は何世紀にもわたって無数にあったが、証拠といえるようなものは何一つない。願ってもない機会ではないか!。

「見せてもらおうじゃないか」と、あなたは言う。私はあなたをガレージに案内する。なかを覗くと、梯子と、空っぽになったペンキの缶と、古い三輪車がある--だが竜はいない。

「竜はどこだい?」あなたは尋ねる。

「ここにいるよ」あいまいに腕を広げながら私は言う。「言い忘れたんだが、うちの竜は目に見えないんだ」

そこであなたはこんな提案をする。ガレージの床に小麦粉を撒いて、竜の足跡を取ろうじゃないか。

「それはいいアイディアだ」と私。「だが、うちの竜は宙に浮いているんでね」

それじゃあ、赤外線探知器で目に見えない炎をとらえよう、とあなたは言う。

「それもいいアイディアだが、目に見えない炎は熱くないんだ」

スプレー式の絵の具を吹きかけて、目に見えるようにしてはどうか、とあなた。

「あいにく、うちの竜は物質でできていないから、絵の具がつかないんだよ」

こうして、ああ言えばこう言うというぐあいに、私はあなたの提案する物理的検証方法を次々に無効にしてゆく。

さて、目に見えず、物質でできておらず、宙に浮いた、熱くない炎を吐く竜がいるというのと、そもそも竜がいないのとは、いったいどこがちがうのだろうか?

私の主張を論破するすべがなく、反証を挙げるような実験を考えつかないなら、竜は存在するという主張にはどんな意味があるのだろうか?

私の主張を論破できないからといって、その正しさが証明されたことにはならない。この2つはまったく別のことなのだ。検証できない主張、証明しようのない主張は、たとえそれがどんなにわれわれの心を躍らせ、不思議を思う気持ちをかきたてたとしても、真実としての価値はないのである。私があなたに求めているのは、証拠はないが信じてくれ、ということなのだ。

ガレージに竜がいると私が言い張ったとき、そこからわかることが一つだけある。それは、私の頭の中で何かおかしなことが起こっているということだ。物理的な検証は何一つできないというのに、なぜ私はそんなことを信じているのだろう?

夢か幻覚を見たのだろうか。しかし夢や幻覚ならば、これほど真剣になるだろうか?私は医者にかかった方がいいのかもしれない。少なくとも私は、人間の誤りやすさを、あまりにも小さく見積もっているのではないだろうか。

こんな場合を考えてみよう。たしかに検証は一つもうまくいかなかったが、あなたは心を広くもって、あらゆる可能性を残しておきたいと考えたとしよう。そこで、私の話を即座にはねつけたりはせず、とりあえず留保することにする。状況は竜がいるとする立場に不利だが、もしも新しいデータが得られれば再度調べてみようと思う。もちろん、たとえあなたが「証拠不十分につき」信じてくれないとしても、私が気を悪くする筋合いではない。頭が固くて想像力に乏しいなどとあなたを非難するのは、私の方がまちがっている。

別の場合を考えてみよう。その竜は目に見えないという。だが、あなたの目の前で床に足跡がつき、赤外線探知器の針が振り切れ、スプレー式の絵の具をふりかけたらノコギリ状のぎざぎざ模様が浮かび上がったとしたら?

あなたが竜の存在をどれほど疑っていたとしても(目に見えない竜など論外だ)、そこに何かいることは認めざるをえないだろう。それが目に見えない火を吐く竜であっても、状況とは矛盾しない。

もう一つのシナリオを考えよう。竜がいると言い出したのが私一人ではないというケースだ。あなたの知り合いの人たちも同じことを言う。しかも、お互いに知り合いではないと確信できる人たちもいる。みんながみんな、それぞれのガレージに竜がいると言いだしたら?

ただし、誰の話を聞いても、証拠は雲をつかむようなものばかりだ。そして全員が、物証もないのにこれほど確信できるなんて、自分でも気味が悪いのだとまで言う。誰一人として頭のおかしい者はいない。もしかしたら、目に見えない竜は昔から世界中のガレージに隠れていて、人間がようやくそれに気づきはじめただけなのだろうか?そんなことはあってほしくないんだ、と私は言う。しかし、ヨーロッパや中国に古くから伝わる竜の神話は、本当は神話などではないのかもしれない……

そこへ、竜のものらしき足跡が見つかったという報告が出はじめる。ところがその足跡は、懐疑的な人のいるところでは決してつかないという。となれば、おのずと別の説明が浮かび上がるだろう--足跡をよく調べてみると、でっちあげもできそうな代物だ。そこへまた別の竜信者が登場して、火傷をした指を見せ、竜が吐く息のせいでこうなったのだから、貴重な物的証拠だと言う。しかしこれにも別の可能性がある。指を火傷するには、目に見えない竜の息がかかる以外にも方法があるからだ。こういう「証拠」には--竜信者がどれほどそれを重視しようと--説得力があるとは言えない。この場合もやはり、唯一分別のあるやりかたは、とりあえず竜の仮説を退けておいて、将来物理的データが出るのを待つこと、そして、一見まともそうな大勢の人たちが、まったく同じ奇妙な妄想を抱くようになったのはなぜかを考えることである。

疑似科学側の主張を科学的に考える筋道の比喩。ここで「私」の頭の中で何かおかしなことが起こっていることは明らかになりますが、「私」を論破することは誰にもできません。

科学の領域と宗教の領域

第15章 ニュートンの眠り より

 このように、原理的にでも検証可能なことを言ったとたん、宗教は否応なく科学の土俵に足を踏み入れることになる。今や宗教は、実在について何か主張をするたびに、必ずその正否が問われることになったのだ(ただし、宗教が世俗の権力を握り、信仰を押しつけているような場合は別である)。この状況に怒りを燃やす人もいて、ときに露骨な罰をもって懐疑主義者に脅しをかける。たとえばウィリアム・ブレイクは、『無垢のことぶれ』という無害そうな名前の作品のなかで、こんな二者択一を迫った。

子供に疑うことを教えこむ者は
腐る墓場から出ることなし
おさなごの信仰を重んじる者は
地獄と死とに打ち勝つ

もちろん多くの宗教は(敬いの心を大切にし、倫理、儀式、コミュニティー、家族、慈善、社会的経済的正義のために力を尽くしている宗教は)、その正当性に疑問が投げかけられているわけではなく、むしろ科学の知見によって高められている。科学と宗教は、対立すると決まったものではないのである。あるレベルでは、科学と宗教はよく似た役割をもっており、お互いを必要としているのだ。たとえば、率直で活発な議論をすることは、疑うことを聖化するところまで含めて、ジョン・ミルトンの『アレオパジティカ』(1644年)にさかのぼるキリスト教の伝統である。キリスト教やユダヤ教の主流の宗派は、謙虚に自己批判を行い、道理を尽くした議論を重んじ、科学の最良の知が投げかける疑問を快く受け入れ、ときにはそれを先取りすることさえあった。しかし、保守派や原理主義などの名で呼ばれる宗派は(今日こうした宗派は日の出の勢いで、主流の宗派の主張は人々の耳に届かず、その活動も目に触れないほどになっている)、すでに反証されているようなことを支持し、それゆえに科学を危険視しているのである。

宗教的伝統は、しばしばきわめて豊かで多面的であり、やり直しや見直しの機会はいくらでもある。とくに、その聖典を隠喩や寓意として解釈するときにはそうだ。そこから、過去のまちがいを告白するという妥協点も生まれるのである。1992年、ローマカトリック教会がガリレオの地動説は正しかったと認めたことは、その好例といえるだろう。3世紀ほど遅きに失したとはいえ、それは歓迎すべき勇気ある決断であった。今日のローマカトリック教会は、ビッグバンとも対立しないし、宇宙の年齢が150億年ほどだと言われても異議を唱えないし、最初の生物は分子から生まれ、人間はサルに似た祖先から進化したという説にも反対しない(もっともカトリックは、「魂の吹き込み」の件については特別な見解をもっているが)。プロテスタントやユダヤ教の主流宗派のほとんども、これと同様の健全な立場を取っている。

私はこれまで宗教指導者たちと神学的な議論をしてきたが、そのなかでしばしば尋ねたことがある。それは、もしも中核となる教義が科学によって反証されたらどうするか、ということだ。この質問を現在の第14世ダライ・ラマに投げかけたとき、彼はためらうことなく、保守的な宗派や根本主義の指導者が誰も言わなかったようなことを言った。ダライ・ラマは、「そうなれば、チベット仏教は変わらなければならないでしょう」と言ったのだ。「生まれ変わりのような(どの例にしようかと迷ったが)、真に中核となる教義でもですか?」と私は尋ねた。

「そうです」と、ダライ・ラマ。

「しかし」と、彼は目をキラリとさせながらつけ加えた。「生まれ変わりを反証するのはむずかしいでしょうね」

ダライ・ラマの言う通りである。つまり、反証しようのない宗教上の教義に関しては、科学の進歩を懸念する必要はないのだ。「宇宙の創造者」という、多くの信仰に共通する大いなる概念はそんな教義の一つだろう。これは、正しいと証明することも、まちがっているとして捨て去るのもむずかしい概念である。

モーゼス・マイモニデスはその著書『惑える者への手引き』のなかで、神を本当に知ることができるのは、自然科学と神学の両方を、偏見をもたずに自由に研究した場合のみだと述べている。もしも科学が、宇宙は無限に古いことを証明したらどうなるだろうか?

その場合、神学は大きな改革を必要とするだろう。実際、宇宙の年齢が無限大だとわかれば、科学は創造主の存在を反証することになるかもしれない。なぜなら、もしも宇宙の年齢が無限大で、宇宙がいつもそこにあったのなら、創造主も要らなくなるだろうからだ。

宗教的真実と科学的事実の関係について。ダライラマの思考の柔軟性に感銘を受けます。