「日本は危機か」(ヨハン・ガルトゥング)から残しておきたい文章

日本は危機か ヨハン ガルトゥング・安斎 育郎 著 かもがわ出版 1999年  より、記録しておきたい文章を引用します。

  • p.11より。ガルトゥング先生の文。

悲観主義的な傾向がある日本

そこで文化的な側面を取り上げるにあたってまず思い当たるのが、日本にはどうも悲観主義的な傾向があるのではないかということです。得てして最悪の事態が想定される傾向にあります。成田空港や関西空港に到着して、東京の都心や京都までの所用時間を聞いたとします。そういう場合、大抵万一ということを考えて、100%ぐらいサバを読んだ時間を言われます。もちろん事情によれば、最悪の予測が現実的である場合もあります。交通渋滞や車の故障、台風、地震、あるいは戦争の勃発などによって、そういう可能性はあるかもしれません。しかし、その点を問題にしているのではありません。こういう議論は的外れでして、私か問題にしているのは、最悪の事態を想定するこうした心の持ち方です。これは最善のケースを常に想定する典型的なアメリカ人とはまったく逆です。

アメリカ人の最善の事態を想定するアプローチは、アメリカ人に「できるぞ」というメンタリティーを植え付けます。その結果、たとえば就職の面接においても、「はい、私にはそういう資格があります」と答えるわけです。そして、それでは月曜日から仕事を始めましょうということになって、大慌てで即席のクラスに出かけて行くのです。たとえば三つのコンピュータのコースを週末に集中的に受けて、月曜日に出社するという方法です。ところが日本人はどうでしょうか。日本人は自分の出来ない点、自分の力量不足、あるいは資格のなさを面と向かっては言わないものの、おそらく気がかりにしているといった態度をとると思います。ですから就職活動一つにしても、アメリカ人は自分の方からイニシアチブを取ってどんどん雇用者側を探しますが、日本人は雇い主が自分を見つけてくれることを待っています。これは大学でもよく見かけることです。

こうして就職したアメリカ人は仕事がうまくいかない場合、責めなければならないのは結局自分自身である、と結論づけます。というのもそもそも当初から彼にはそうした資格がなかったわけです。日本では雇用者の方が、そういう甘い判断をしたということで自分を批判することになります。アメリカでは雇われた方が自分の資格の無さに気がついて責任をとって辞め、そして今週末また別のコースで即席の資格を取って、もう一度挑戦する、こうなるわけです。ところが日本では雇用者の方が責任をとって、失敗を仕出かした社員をカバーすることになります。

最善ケースまたは最悪ケースは、どういう過ち、どういう失敗と妥協するつもりがあるのか、その許容度と関係してくると思います。最悪の事態の想定にも利点があります。最悪の事態を想定しておいて、たとえば東京や京都までの所用時間が予想の半分だったとします。皆、大喜びします。ああよかった、最悪の事態が起こらないでと。まるで時間のおまけをもらったような気になります。早起きしなければならかったし、出発も早かったけれど、最善の事態を想定してそれがうまくいかなかった場合よりも、最悪の事態を想定してそれが当たらず時間を儲けたような気持ちにさせた場合の方が、お互いの人間関係がずっとうまくいくことは確かであると思います。

ですから最悪の事態を想定することは、人間関係を円滑にしていく上で非常にスムーズにいく方法だと思います。それに対して最善の事態を想定するやり方はうまくいけば素晴らしいのですが、万一失敗に終わった場合はその人間関係がギクシャクしてしまうかもしれません。

日本国民が悲観主義的だという指摘は目から鱗が落ちました。景気の良かった頃、資格を取って転職して高給取りにという立身出世ストーリーが語られ、結局は定着しなかったのは、採用者責任と求職者責任の捉え方の違いがあったのかと感じました。

  • p.16より。ガルトゥング先生の文。

最悪事態を想定することが癖になっている人たちにとって、危機は待ち受けるものではなく、今そこにある状態だと思います。私か日本を直接知るようになってから、私はいつも「危機」について聞かされてきました。そして非常に深刻な顔をした人たち、これはいつも不思議に男性なのですが、その人たちがテレビで危機について話しているのを見てきました。しかし、よく見てください。本当に危機的状態にあるならば、どうしてこの人たちは口元に笑みを浮かべながら危機の話ができるのでしょうか。これはおそらく危機を恒久的な状態として捉えているから、また人間はいつも仏頂面をし続けることはできないからかもしれません。

私はヨーロッパ人として、また北ヨーロッパの人間としては尚更、日本人がいわゆる危機問題について話すときに、これをそれほど深刻に受け止めることはできないのです。私は日本人による危機の解釈よりも、むしろ自分の目で見、聞き、そして判断したいと思います。ノルウェーでの生い立ち、それから過去40年間にわたって何度もアメリカに滞在し、また訪問した結果、私は個人主義的になっておりますので、私の意見に反対されても、または同意してくださってもあまり私は問題にしません。それよりも根本的に大事なのはお互いが理解し合い、その上でよい対話ができるかということです。これから私か申し上げることは、多くの日本人の方にとってはあまりにも楽観主義的であり、おめでたいと思われるかもしれません。読者の中には私のことを「何か何でも最善事態を想定する原理主義者ではないか」というご意見もあるかもしれません。

テレビのコメンテーターがあまり好きでない僕はこの文章に笑ってしまいました。反面、ガルトゥング先生が「危機」と表現する事象はかなり深刻ということになります。この本の中では日本の「教育」を最も深刻な危機にあると捉えているようです。

  • p.111より。安斎先生の文。

私は、現代の学生がその資質において劣っているなどとは少しも考えていません。おそらく、自分が大学で学習するということの意義を、人生どう生きるかということとの関係で自覚的にとらえられないでいるということでしょう。社会の方にも、「大学の勉強なんてどうせ世の中では通用しない」というある種の「甘やかし的な決めつけ」があるかに見えます。

私は、常々、学生諸君に「人生四つの大事」を語りかけてきました。

第一は、自分なりの価値観の発見です。人生をかけて実現すべき価値とは何なのかを自分なりに発見すること-それは、人生最大の宝探しに相違ありません。そのためには、さまざまな価値を掲げて人生を生き抜いていった先達たちの生きざまに自伝や小説や演劇や映画や講話などを通じて接し、反発したり共鳴したりしながら「これぞ自分にとって価値ある生き方だ」というものを発見することが必要です。

第二は、価値あるものが発見できたら、その価値が天から棚ぼた式に降ってくるのを受動的に待つのではなく、周囲の自然や社会に豊かに働きかけて価値実現のための主体的な努力を払うことでしょう。自治会の活動や社会的なボランティア活動に参画することは、そうした力量を身につける良い道場であり、試練の場でもあります。

第三には、自然や社会に働きかけると言っても闇雲に働きかけたのでは現代のドン・キホーテになるだけですから、価値実現のための道筋を明らかにするためにも、自然や社会のしくみについての合理的・体系的な知識を習得することが大切です。そのためにこそ大学には自然科学・社会科学・人文科学の講義科目が豊かに開講されているのです。

第四には、自分が掲げる価値を絶対のものと思い込むと、自分と違う価値を掲げている他人が時に邪魔になり、争いの原因になります。だから、自己を絶対化するのではなく、相対化する努力が必要であり、意味のある対話を通じて対立を止揚していく術を学ぶことが有意義だと思います。

こう考えてくると、人生の幸せとは、「自分なりの価値を発見し、その価値実現のために持って生まれた能力の発揮を妨げられることなく、生き生きと取り組める状態」ということになるでしょう。大学に入ること自体が価値だった学生は、大学に入った途端に価値を見失いがちです。大学を出ること自体が価値である学生は、単位をとる以上に勉強することに価値を見出さない傾向にあります。学生が生きることの価値を考え、価値実現の上で学習がもつ重要な意味を理解し実践すること-それこそが求められているのだと思います。

安斎先生の他の本でも、この四箇条はしばしば見られます。知的好奇心を満たすという内発的動機付け以外で学ぶ理由を考えるとき、この四箇条はシンプルかつ的を得ていると思います。