説明責任を果たせるわけがない

物事が起きたとき、それに関心を持つ人に「わかりやすく誠実に説明しようと努力する」ことは大いに結構なことです。その行為をする責任を持ち実行するという意味で「説明責任を果たす」と言うならば、これも大いに納得できます。

しかし、「説明責任」という言葉は、「説明責任を果たしたとは思えない」という批判的な場面で使われるように感じます。さらに、「どういう状態になれば説明責任を果たしたと言えるのか」は極めて曖昧です。

おそらく、「この人は説明責任を果たしてくれました」と思えるのは、相手の説明が「腑に落ちた」と感じ得た時でしょう。ところが「腑に落ちる」のはごく個人的な感覚だから、説明の受け手はどうとでも言うことができます。相手を陥れたいのなら、腑に落ちない理由はいくらでもあげつらうことができます

「納得する」という行為には、相手と自分との接点を能動的に探る作業が必要です。そもそも接点を探ろうとしない人にいくら説明をしても、腑に落ちてもらえるはずがありません。

クレーマーの常套句である「誠意を見せろ!」は、「説明責任を果たせ!」に似ていると思います。「誠意を見せろ」も、何が「誠意」なのかはごく個人的な感覚に委ねられます。この2つの言葉は、使われ方に違いがありません。

「●●が不明確だから説明して欲しい」と具体的な不明点を上げるわけでもなく、漠然と「説明責任を果たしてない」という主張は、なんとなく理屈が通ったように聞こえる、ただの言いがかりだと思います。

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